さらさら録

日々のさらさらの記録

『桜の少女』

今回も参加しましたよー。

【第6回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - 短編小説の集い「のべらっくす」

個人的な話をすると3月下旬はトラウマの季節で、無意識のうちに自分を守るために感情の波がとてもとても小さくなってしまうんです。その中で何かを書くってことはとてもしんどくて何とか書き上げた状態ですが、それでも書いたものを読んでもらわないと何も始まらないということでアップいたしまする。


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っぐしゅん、と大きなくしゃみをひとつして、紗夜は涙目で桜を見上げた。花粉症の紗夜の目の前には大きな桜。家の近くの緑地公園に植えられているこの桜は、1ヶ月ほど早くやや濃紅の花を咲かせる。春先取りの気温の中でふいに冷たい風に頬を撫でられ、紗夜はあの日のことを思い出した。


「ねえねえ、ひょっとしてメイコー受けたの?」
寝転がる紗夜を覗き込んで、見慣れない名札と校章をつけた少女が言った。紗夜は慌てて上半身を起こした。
「え、何でわかったの」
「あはは、起きなくてもいいよー」
少女は紗夜の横にごろんと寝転んだ。座ったままの紗夜は少女を見ようとして、そのくりっとした瞳に視線が吸い込まれた。
「あたしもメイコー受けたんだー。で、帰ろうとしたら電車からここが見えてさ、思わず途中下車しちゃったの。だってこの桜、とってもきれい」
紗夜はゆっくりと桜を見上げた。小さな頃から見慣れてきた、少し早い時期に咲く桜。
「そうかなぁ」
「そうだよ。近くまで来たらさ、きれいな女の子が寝転がって見てたからびっくりしちゃったよ。きれいなものばかりある、って」
そう言って少女はえへへっと笑い、紗夜の腕を引っ張って寝転がらせた。芝生の匂いと、陽だまりのあたたかさと、時々吹き抜ける冷たい風の上に広がる一面の桜、そして隣の少女。今日受けてきた高校入試のことすら、なんだか遠く感じられた。
「受かってるといいね」
「ねー」
小さく沈黙してからばっと少女は立ち上がり、プリーツスカートについた枯れ草なんかをばさばさと払った。マニッシュショートにはまだ、枯れ葉の破片がついたままだ。
「あっ、電車の時間!行かなきゃ!」
「待って!あの、あたし、大野紗夜って言うんだけど」
「わかった、あたしは大島香歩!じゃ、会えたら入学式でね!」
春の嵐のようにばたばたと走り去る香歩を、紗夜と桜と自転車がぼんやりと見送った。

入学式の日、貼られた掲示板から名前を探し出そうとしていた紗夜は何者かに背中を叩かれ、思わず腰を抜かした。
「あーっ、大野紗夜ちゃん!って、そんなに驚かなくても」
何者かの姿を確認し、手を引かれてよろよろと立ち上がって掲示板を見る。自分の名前の上に書かれた『大島香歩』は今、同じセーラー服を着て自分の手を引いていた。
「うっそ、また会えた。しかも同じクラス」
「え、何?それあたしが落ちてるって思ってたってこと?」
「違う違う、それより教室入らなきゃ」
「そうだね、さっきは驚かせてごめん」
香歩は腰を抜かした紗夜のかばんも持って歩き始めた。紗夜も少し遅れて香歩のあとを歩く。ソメイヨシノが、そんなふたりと新入生たちを包んでいた。

半乾きの髪のまま、香歩はスウェット姿でぺたんと床に座り込んで窓におでこをひっつけていた。閉められたドアの音に答えるように、香歩が言う。
「ここからあの桜を見るのも最後かなぁ」
紗夜の部屋からは緑地公園が見える。この時期は濃紅色がぼうっと暗闇に浮かび上がるようで、香歩はテスト勉強などと称して紗夜の家に泊まるたびに桜を見ていた。髪が肩につきそうなくらいに伸びている後ろ姿に、紗夜はかける言葉がなかった。
あの桜の下で会ってから3年。紗夜と香歩は、いつだって一緒だった。クラスが離れたことがあっても、部活が違っても、『さよかほ』と認知されるくらい一緒だった。だから、香歩は紗夜が赤点を取った数学の試験の日に38度の熱を出していたことを知っているし、紗夜は香歩が図書室の本を1年以上返し忘れていたことを知っている。香歩は紗夜が1年の終わりに卒業する先輩に告白されたことを知っているし、紗夜は香歩が2年のときに隣のクラスの男の子と付き合って1週間で夏休みに突入して別れたことを知っている。
いつも一緒だった。何だって知っていた。誰よりも近かったはずの香歩が、今の紗夜には誰よりも遠かった。

「紗夜、来年の春になったら帰省するからさ、また泊まりに来てもいい?」
香歩は紗夜を振り返り、屈託なく無邪気に聞いた。なぜかその見慣れた笑顔が、紗夜の奥底にしまわれていた引き出しの鍵をぱちんと開けた。
「何言ってんの。来ないよ、どうせ」
何かを言おうとした香歩を無視して、紗夜は続けた。
「どうせ、あっちに行ったらこっちのことなんて忘れるよ。楽しいこともいっぱいでさ、新しい人もいっぱいいてさ、忘れてくんだよ。香歩はここを出てくんだから、こっちのことなんて忘れなきゃダメだよ」
立ったまま、言う意味なんてないとわかりながら紗夜はまくし立てた。香歩も自分も何もかも、どうでもいいとすら思った。濡れ髪の間から覗く顔は湯上がりではない色の血で赤く染められ、握り締めた拳も同じ赤に染めていた。香歩が見たことのない紗夜が、そこにいた。香歩は、紗夜と同じように小さく唇を噛んで紗夜を見つめた。
香歩はおもむろに立ち上がると、入学式のときのように紗夜の手を引いて座らせた。そして、何も言わずにドライヤーを手に取り、紗夜の髪を乾かし始めた。堪え切れずに、紗夜は俯いた。「ごめん、香歩、ごめんね」とか弱く繰り返す声は、ドライヤーのファンの音にかき消されていった。

なんだか狭い。そう思い目を覚ました紗夜の隣に、香歩がこちら向きですうすうと寝息を立てて寝ていた。いつもは紗夜がベッドで寝て香歩が床に布団を敷いて寝るのに、昨日は香歩がベッドへと潜り込んできたのだった。「ちょっと狭いけど大丈夫だよね」と笑いながら。
薄明かりの中で、繋がれた手がほどけないように体をひねって香歩と向き合う。そばかすの散る頬を撫で、薄い唇に触れる。そっと前髪をかき上げ、しばらく迷ったあとで、紗夜は香歩のまるいおでこに顔を寄せた。「んん、ぅー」と香歩は言葉にならない寝言をこぼした。朝が完全にやって来て少し経ったら、香歩は荷物と一緒にこの街を発ち、紗夜はこの街に残る。それが選んだ道だとわかっているのに、紗夜は別れの言葉を探し出せずにいた。

香歩のリュックを前かごに乗せた自転車を引いて、紗夜は駅までの道を歩いた。隣を歩く香歩は珍しく、少し神妙な顔をしている。
「あのさ」
「ねえ」
同時に口を開いた2人は、顔を見合わせて思わず笑い出した。
「何言おうとしたのか、せーので言わない?」
「わかった、いくよ。せーのっ」
「「桜、見てかない?」」
きれいにハモった声を聞いて、2人はまた笑った。
「おんなじこと言ってる」
「だって、考えてることくらいわかるよ」
「じゃ、行こ!」
小走りに緑地公園の桜へと向かう。先に着いた香歩は、肩で軽く息を弾ませながら紗夜の腕を引っ張り、芝生の上へ抱き転げた。前かごからリュックが舞い、自転車が派手な音を立てて倒れる。その音を聞いてまた、抱き合ったまま笑い転げた。
並んで手を繋いで大の字に寝転ぶ。空の青を塗り潰す濃紅は、懐かしくて新しく見えた。
「ねえ、紗夜」
紗夜は首の向きだけで「何?」と答える。
「あたしさ、紗夜のことも、ここのことも、忘れないから」
香歩は上を向いたまま、握る手にぎゅっと力を入れた。さよならだけなんて、嫌だから。紗夜もその手を握り返す。少し冷たい風が、目元を乾かしていった。

「あっ、電車!」
香歩はがばっと起き上がった。
「あのときみたい、3年経ったのに変わってない」
紗夜はくすくすと笑いながら起きて、くしゃみを2回した。「そんなこと言ってる場合じゃないって、早く」とばさばさとショートパンツの裾を払った香歩に、紗夜は告げた。
「あたし、駅まで行かないから。ここでまた会おうよ」
精いっぱい絞り出した明るい声を聞いて、香歩の目から大きな雫が溢れた。気づかないふりをして大きく頷いて、ぐっと近づいて紗夜の顔を覗き込み耳元で囁いた。
「紗夜。ありがとう。大好き」
走り出した香歩のリュックが半回転ターンして大きく手を振る。
「香歩ー!電車来ちゃうよー!行かなきゃ」
くるりと背を向けたリュックは、駅へ向けて走り出す。風が落とした花びらが、香歩の姿を彩った。


紗夜はひとり涙目で桜を見上げ、大きなくしゃみをひとつした。あの日のようにあたたかな陽だまりを滑っていくほのかに冷たい風の中に立っていると、何かが聞こえたような気がした。ああ、あれは声だ。紗夜は鼻をすすりながらゆっくり振り返った。

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