しだれ桜の下
桜が少しずつ散り始めている。間に合うように、ソメイヨシノを抜けてしだれ桜を見てきた。
ソメイヨシノとしだれ桜のピンクのグラデーションがきれい。
桜は偉い、と思う。春の訪れを告げるようにきっちりと咲いて、街をピンクに染め上げ人々から愛でられ、飽きられる前に醜くなる前にさっと散っていく。その生き様も含めて、桜は愛されているのだろう。しだれ桜の下で、散った花びらを靴の先でつつきながらそんなことを思う。イヤホンからは『さくら』というタイトルの曲が流れていた。
すべてを失くしてからは
ありがとうと思えた
これはこれで青春映画だったよ
俺たちの
悲しくて 悲しくて
涙さえも 笑う
優しさも 愛おしさも
笑い転げてしまうのに
(syrup16g『さくら』より)
翻ってわたしはどうだ。しだれ桜を見上げることなんてとてもできない生き様である。愛でられるわけでもなく、褒め言葉はうまく受け取れず、潔く散る勇気すらも持てずに日々をぐずぐずと生きている。いや、散る勇気は持たなくていいのかもしれないけれど。
頭上の桜は、わたしの思いなど迷惑そうに風に揺れた。ぱらりと花びらが舞う。桜は散るときでさえこんなに綺麗なのに、わたしは。
たぶんこんなことを考えていたら、わたしの友人は叱るなり心配してくれるだろう。そうした存在に生かされていることも十分わかっているし、だからこそ生きていたいという気持ちがある。反面、自分の中の言うことを聞かない部分は、桜と自分とを比べてしまう。散らかった思考は悪い癖に呑まれていく。悪い癖であることもわかっていながら、わたしを求めてくれる人への裏切りであることもわかっていながら、止められない部分がずしりと胸のあたりにのし掛かる。花に酔ったのかもしれない、とよろよろ歩き出して自販機でコーラを買い飲み干した。
こんなぐずついた気持ちは、気圧差と気温差のせいだ。何しろ名古屋は、昨日の最低気温が今日の最高気温なのだ。そのせいか喉だって嫌な雰囲気を醸し出しながら痛い。そもそも毎年3月から4月はたまらなく精神を損傷しているから、これだって全部春のせいだ。
喉の痛みが引いたら、街が葉桜の緑に覆われたら、また何か変わるだろうか。