さらさら録

日々のさらさらの記録

『ねこのした』

今回も参加して書きました。
お題の元にいろんなものを書こうと試行錯誤するのは苦しくも楽しい時間です。


【第5回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - 短編小説の集い「のべらっくす」

そして今回は性描写が含まれますのでご注意願います。
こっそり、夜に読んでくださいね。


☆ * ☆ * ☆

猫のような人になりたかった。人と人の間をするりと抜け、ところどころにキスを残しながら伸びやかに気まぐれに心のままに生きるような人に。そう思っていたはずなのに、ペット可のアパートを選んだのに、千花は今や猫から遠く離れた人となっていた。
仕事から帰ってベッドに身を投げ出すと、金曜夜の高反発マットレスの上で千花と携帯が跳ねた。夕食も食べずメイクも落とさず倒れこんでいた千花は、ヴヴ、と鳴った携帯に手を伸ばし飛び起きた。乱れた髪とメイクを直し、香水を一吹きして飛ぶように家を出る。

諒次がまとう空気が何に似ているのか。それがわかったのは、初めて体温を交わした時だった。――猫だ。切れ長の大きな目も、人懐っこい笑顔から覗く右の八重歯も、かったるそうに歩くのに滑らかな手つきで煙草を吸うところも、連絡はいつも突然で数日返信がなかったりするところも。すべて、諒次が猫のような人だからなんだ。そう気づいたときには、千花はすっかり猫のような諒次に飼われていた。
白い息を弾ませながらいつもの居酒屋の戸を開け、いつものテーブルに向かうといつもの肴を並べた諒次がいた。その姿を見ただけで千花はほとんど泣きそうだった。もし千花にしっぽがあったなら、犬のようにぶんぶん振っていただろう。
千花の話を聞きながら、諒次は少し冷ましたお湯割りを啜り、目尻を下げ八重歯を見せて笑った。千花も、ポテトサラダを口へ運びながらつられて笑った。鋭く険しい顔が崩れたときの笑顔が、千花は好きだった。

背中をクッションに預け、千花がベッドの上に座る。諒次は千花の乳房の先端に丁寧にキスをして、ゆっくりと舌を這わせる。細かく、大きく。時々諒次は口を外し、どこか遠くを見る。千花はそんな諒次の頭をゆっくりと撫でる。ああ、やっぱりこの人は猫なんだと小さな声を上げたとき、指に絡むこげ茶色の柔らかな毛が動き鋭い目が千花の目を射抜く。千花は、先端から下腹部へ全身へと広がる甘い刺激と諒次への感情で喉を塞がれ、吐息を漏らすどころか呼吸すらもできなくなる。
その様子を見た諒次はしなやかに体勢を変え、舐め尽くし、千花を組み敷いた。諒次が耳から首筋を舐める。そのまま八重歯を突き立てて首の動脈を食いちぎってくれたらいいのに、このまま一緒にすべて果ててしまえばいいのに。そう願いながら千花は背中に爪を立てた。

土曜の昼間にカーテンを閉め切った部屋にいると、暗いのに奇妙に明るい。物の少ない部屋で、千花は上半身を起こしてパーカーを羽織り、隣で丸まり小さないびきを立てて眠る諒次に手を伸ばした。髪をそっと撫で、唇に人差し指で触れる。指に伝わる鼻息といびきに併せて上下する肩は、諒次が生き物だという証拠だった。
端から見たら歪んだ関係だろう。千花から会いたいと連絡することもない、約束も何もない、友達にだって話せない、知っているのは諒次の名前年齢住所連絡先出身地くらい。それでも、確かに残る諒次を愛しているという気持ちだけでいいと思った。ほとんど縋るように、祈るように、愛していた。
「なんで諒さんを愛しちゃったのかな」
千花は声に出さず唇だけで呟いた。見つめる視線に気がついたかのように、諒次がうっすらと目を開けた。軽く伸びをしてから、千花の首に両腕を伸ばす。
「おいで」
言葉だけで体中がしびれ倒れそうな千花を、諒次は抱き寄せた。唇を舐められた千花は、そのまま口を開いて諒次の舌を招いた。渡せなかったバレンタインデーのチョコレートよりも甘い唾液を、ふたりは貪った。

3月に入り、諒次からの連絡が少しずつ増えた。「ノー残業デーだろ」と、水曜に食事にだけ誘うこともあった。やっぱり諒次は気まぐれな人だと、千花は目の前で鯖の塩焼きをつつく諒次を見ていた。
「3月の最後の土曜、空いてる?」
聞かれた千花は目をぱちくりとさせた。直接、顔を合わせて予定を訊いたことなんてないのに。
「どうしたんだよ、そんな顔して。連れてきたいところがあるから、どうかなと思って」
どういう風の吹き回しかと思う前に、口はすぐに「空いてます」と言っていた。諒次となら、どこへでも行けるというのに。
「よかった、行こう」と言って諒次は少し冷ました豚汁を啜った。

約束の土曜日、諒次はなかなか現れなかった。「ごめん、昨日飲み会だった」と現れた諒次は、千花を助手席に乗せ郊外へと車を走らせ、1時間ほど過ぎたところで車を停めた。そこは、猫専門のペットショップだった。車を降りて猫に見入る千花に、諒次は言った。
「お前、猫好きだろ。だから、好きな猫選んで。その、プレゼント」
「え、いいんですか!?うそ、だって」
「いいからいいから。選びな」
戸惑いながらも、千花は慎重に猫達を見た。そして、大きな切れ長の目と深いこげ茶色の毛を持つ猫を選んだ。諒次は満足そうな顔で子猫を抱く千花の様子を携帯のカメラに収め、猫用品一式と一緒に代金を支払った。バイパスを走る車の中で、千花は膝に乗せたケージから伝わる熱を感じながら、ハンドルを握る諒次の横顔を見た。――何を、考えているの?

「あのさ」と諒次が口を開いたのは、千花のアパートまであと信号ひとつというところだった。
「何ですか?」
「言わなきゃいけないんだけど、俺、3月末で異動になったんだ。ここから飛行機じゃないと行けないところ。引っ越しで明日にはここを離れるから、今日で最後」
言い終わったところでちょうどアパートの前に着き、諒次は千花と荷物を降ろした。千花は衝動的に、ケージと荷物を持つ諒次をひったくるように自分の部屋へ押し込んだ。
連れて行って、なんてとても言えなかった。いつだって本心を見せない、自由で気ままにふらりと引っ掻き傷を残していく諒次に言っても無駄だとわかっていた。いつか来るはずだった終わりの時が来た。それだけのことだった。
諒次はそっとケージから子猫を放ち、睨むように自分を見る千花にしなやかで優しい手つきで触れた。2匹の猫の息遣いが素肌に触れた。千花はそっと諒次の首の付け根を噛み、諒次も同じ場所を噛んだ。やわらかく八重歯を突き立てて。にゃおお、と子猫が鳴いていた。

「じゃ、元気でな」
車の前でちいさく笑った諒次に、子猫を抱いた千花は満面の笑みで今まで言わなかった言葉を言った。
「諒さん。愛してる」
諒次は千花を抱き締め、顔を髪にうずめた。子猫が細い声で鳴く。顔を上げた諒次は、千花をまっすぐに見た。
「千花。今まで、ありがとう」
千花は何も言えずに大きく頷いた。諒次は千花の頭をぽん、とひとつ叩いて頬をぺろりと舐めるようにキスをし、車に乗り込み走っていった。

部屋に戻りぺたんと床に座り込んだ千花から、止めどなく涙が溢れてきた。諒次と関わるようになってから、どれほどつらくても流れることのなかった涙。頬を伝い、顎の先から落ちた涙は、子猫の頭のてっぺんに吸い込まれた。
ふいに千花の頬を、子猫が舐めた。子猫が涙を舐めるたびに、諒次の姿が切れぎれに浮かぶ。笑顔も、寝顔も、不機嫌な顔も、鋭い目も、八重歯も、まばたきのたびに焼き付けてきた諒次のすべてが。
千花は子猫を抱きしめた。もう会えないとしても、諒次を愛している限り、諒次を覚えている限り、いつだって諒次はここにいる。
「ね、リョウ」
泣き顔で微笑んだ千花を、リョウは鋭い目で一目見て「みゃお」と答えた。


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