“本当の私”を探さなくても、自分を肯定していける - 平野啓一郎『私とは何か-個人から分人へ』
突然だけど、わたしは自己肯定感に非常に乏しい。そして、これまでの人生で、さすがに自己肯定感の低さを苦しいと思うようになり、本当の自分を探し好きになろうとして疲弊してきた。
そんなわたしの頭を、この本はガツンと殴ってくれた。

- 作者: 平野啓一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2012/09/14
- メディア: 新書
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例えば、会社で萎縮しているわたしは嘘のわたしで、友達と楽しくくだらない話をして笑っているわたしが本当のわたしなのか。ひとり考えこみ思い詰めているわたしが本当のわたしで、大好きなハンドクラフトをしているときや短歌を詠んでいるときのわたしは何なんだろうか。そうした考えに、この本はヒントをくれた。それはすべて本当の自分で、ただ分人化がどうなされているのかどうかの問題なのだと。分人化がどうなされているのかという考えは、いじめやパワハラに遭ってきた自分を分人とすることで、自分を解放できそうな気がした。
貴重な資産を分散投資して、リスクヘッジするように、私たちは、自分という人間を、複数の分人の同時進行のプロジェクトのように考えるべきだ。
(略)*1
新しく出会う人間は、決して過去に出会った人間ではない。彼らとは、まったく新たに分人化する。そして、虐待やイジメを受けた自分は、その相手との分人だったのだと、一度、区別して考えるべきだ。自分を愛されない人間として本質規定してしまってはならない。
(略)
「人格は一つしかない」、「本当の自分はただ一つ」という考え方は、人に不毛な苦しみを強いるものである。
(p.94-95)
分人は他者との関係の中で作られていくと書いたけど、それを足場にして自己肯定していくという考え方に、わたしは声を上げて泣いた。わたしは自分のことが好きじゃないし肯定できないけど、でも友達といるときの自分や好きなことをしているときの自分はとても好きだ。それこそが、自分を肯定するきっかけになるとは思っていなかった。
人は、なかなか、自分の全部が好きだとは言えない。しかし、誰それといる時の自分(分人)は好きだとは、意外と言えるのではないだろうか?そして、もし好きな分人が一つでも二つでもあれば 、そこを足場に生きていけばいい。
(p.125)
そうして、好きな分人が一つずつ増えていくなら、私たちは、その分、自分に肯定的になれる。否定したい自己があったとしても、自分の全体を自殺というかたちで消滅させることを考えずに済むはずだ。
(p.126)
この、第三章の最後に綴られた言葉で、わたしはたまらなく自分を愛おしく思えた。肯定できる、そう信じられた。
「好きなこと、楽しいことをしなさいっていうのは、そのときの自分を好きになれるから、自分を好きになる足がかりになるってことなんですね」とわたしの自己肯定感を上げるために頑張ってくれている友達に言ったら、「そこから始めなきゃいけないのか」と絶句されドクターには苦笑されたけど。
ともかく、この本を読んだことで、わたしはわたしを好きになれる気がした。電子書籍版を買って常にスマホに入れて、ハイライトを入れまくりたいくらいだった。

- 作者: 平野啓一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2015/11/13
- メディア: 文庫
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少しずつ、好きだと思える自分を積み上げていけるように生きていきたい。
*1:ところどころに略が入るのは、手帳に印象的な部分を書き写したことによる
わたしは、あなたが大切だ。
命は大切だ。
命を大切に。
そんなこと、何千何万回言われるより
「あなたが大切だ」
誰かがそう言ってくれたら
それだけで生きていける。
- Tell はっきり言葉に出して「あなたのことを心配している」と伝える。
- Ask 死にたいと思っているかどうか、率直に尋ねる。
- Listen 相手の絶望的な気持ちを徹底的に傾聴する。絶望的な気持ちを一生懸命受け止めて聞き役に回る。
- Keep safety 危ないと思ったら、まず本人の安全を確保し周囲の人の協力を得て、適切な対処をする。
最近少し歩いている
散歩というよりはウォーキングだ。仕事が始まるまでに、無職期間に落ちた体力を取り戻しておこうという目論見である。最初はRuntasticでウォーキングの記録を取っていた。これは何年も前にダウンロードして使っていて、信号待ちで一時停止した際のオートストップを使えるようにするためにアンロックまでしたものだ。しかし残念ながらウォーキングではオートストップが作動しないことが判明した。それも随分と使ってから。じゃあ走れよと言われそうだけど、関節の作りがゆるいため歩くのは大丈夫だけど走ることに向かない。ということで、Runkeeperに乗り換えた。これは無料でオートストップが使える上、ウォーキングでもちゃんと作動する。おかげで記録が取れるようになった。自己満なんだけどね。
Runtastic - ランニング&ウォーキング
ASICS Runkeeper™ Running App | Track your Run on iPhone and Android
歩きながらボリュームを絞った音楽を聞き流していろいろなことを考えている。今日はそうして歩きながら考えたことを書こうと思う。
失職してから職を見つけるまで、精神的にしんどいところをさまよっていた。一部はこのブログにも吐露していたしツイッターにも書き殴っていた。友人知人は誰ひとりとして、それを引き受けようとしなかった。ただ、見守り寄り添ってくれていた。当たり前の話だ。わたしの苦しみや痛みや悲しみや怒りや寂しさはわたしひとりのもので、誰かに分けられるようなものじゃないからだ。見守り寄り添ってくれたひとたちがいたから、わたしはきちんと苦しみを抱えることができた。友人知人は引き受けようとしなかったけど、もっともらしい説教をするということもなかった。ただただ、見守り話を聞きそばにいてくれた。それだけで、どれだけ力強く立ち向かえただろう。友人知人の取ってくれた対応は、これ以上ないほどベストだった。
わたしは、手が届く範囲で苦しみや悲しみに寄り添いたいと思っている。善く思われたいなんて意味でもなく、もっと素朴なところで。目の前に転んだ人がいるなら手を差し出すような感覚で。だけど、わたしは苦しみや悲しみや怒りを引き受けることはできない。それは個人の中に宿るもので、分かち合う類のものではないからだ。わたしはあなたじゃないし、あなたはわたしじゃない。だから、引き受けることはできないし背負うこともできない。寄り添うことしかできないし、それがきっとベストなんだとも考えている。わたしの境界の中でわたしはわたしの感情を引き受けるけど、わたしの境界にわたし以外の感情を引きこむことはできない。同じように、誰かの境界にわたしの感情を引き込まれることも望まない。ただ、そこにわたしがある、わたしの感情があると認めてくれたら、それでいい。このブログだって、誰かの代弁として書いてるわけじゃないし誰かの感情を引き受けるために書いているわけでもない。ただ、わたしという人間がいて、こういう生き方があると書き残しているし、誰かに寄り添えたらいいと思っている。それ以上はないのだ。
このことがわからなかった頃は随分と苦しい思いをしたし、今でも完全にわかっているとは言えない。相変わらず暗いニュースに感化されてしまうし。だけど、引き受けることはできないときっぱり思うことで、いくらか楽になった気がする。その分冷たい人間だと罵られても構わない。まずは自分の境界を守ることからすべてが始まるのだから。