さらさら録

日々のさらさらの記録

“本当の私”を探さなくても、自分を肯定していける - 平野啓一郎『私とは何か-個人から分人へ』

 突然だけど、わたしは自己肯定感に非常に乏しい。そして、これまでの人生で、さすがに自己肯定感の低さを苦しいと思うようになり、本当の自分を探し好きになろうとして疲弊してきた。
 そんなわたしの頭を、この本はガツンと殴ってくれた。

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

私とは何か――「個人」から「分人」へ (講談社現代新書)

 個人主義は個人を最小単位と規定しているけど、その個人は実は分人という更に細かな単位で構成されている。その分人は他者との関係で作られていくものである、という分人主義について説いた本だ。わたしはこの本を読んで、目から鱗と涙がぼろぼろ落ちた。
 例えば、会社で萎縮しているわたしは嘘のわたしで、友達と楽しくくだらない話をして笑っているわたしが本当のわたしなのか。ひとり考えこみ思い詰めているわたしが本当のわたしで、大好きなハンドクラフトをしているときや短歌を詠んでいるときのわたしは何なんだろうか。そうした考えに、この本はヒントをくれた。それはすべて本当の自分で、ただ分人化がどうなされているのかどうかの問題なのだと。分人化がどうなされているのかという考えは、いじめやパワハラに遭ってきた自分を分人とすることで、自分を解放できそうな気がした。

貴重な資産を分散投資して、リスクヘッジするように、私たちは、自分という人間を、複数の分人の同時進行のプロジェクトのように考えるべきだ。
(略)*1
新しく出会う人間は、決して過去に出会った人間ではない。彼らとは、まったく新たに分人化する。そして、虐待やイジメを受けた自分は、その相手との分人だったのだと、一度、区別して考えるべきだ。自分を愛されない人間として本質規定してしまってはならない。
(略)
「人格は一つしかない」、「本当の自分はただ一つ」という考え方は、人に不毛な苦しみを強いるものである。
(p.94-95)

 分人は他者との関係の中で作られていくと書いたけど、それを足場にして自己肯定していくという考え方に、わたしは声を上げて泣いた。わたしは自分のことが好きじゃないし肯定できないけど、でも友達といるときの自分や好きなことをしているときの自分はとても好きだ。それこそが、自分を肯定するきっかけになるとは思っていなかった。

人は、なかなか、自分の全部が好きだとは言えない。しかし、誰それといる時の自分(分人)は好きだとは、意外と言えるのではないだろうか?そして、もし好きな分人が一つでも二つでもあれば 、そこを足場に生きていけばいい。
(p.125)

そうして、好きな分人が一つずつ増えていくなら、私たちは、その分、自分に肯定的になれる。否定したい自己があったとしても、自分の全体を自殺というかたちで消滅させることを考えずに済むはずだ。
(p.126)

この、第三章の最後に綴られた言葉で、わたしはたまらなく自分を愛おしく思えた。肯定できる、そう信じられた。
「好きなこと、楽しいことをしなさいっていうのは、そのときの自分を好きになれるから、自分を好きになる足がかりになるってことなんですね」とわたしの自己肯定感を上げるために頑張ってくれている友達に言ったら、「そこから始めなきゃいけないのか」と絶句されドクターには苦笑されたけど。
 ともかく、この本を読んだことで、わたしはわたしを好きになれる気がした。電子書籍版を買って常にスマホに入れて、ハイライトを入れまくりたいくらいだった。

分人主義をテーマに書かれた平野啓一郎氏のこの本も読んでみたい。きっと今なら挫折せずに読めるだろうから。

 少しずつ、好きだと思える自分を積み上げていけるように生きていきたい。

*1:ところどころに略が入るのは、手帳に印象的な部分を書き写したことによる

わたしは、あなたが大切だ。

※今日のエントリは自殺について書いているため、精神状態の悪い方は読まないようお願いします。だけど、周りにそのような状態の方がいる人には役立つかもしれません。




 週末からこの世の終わりのような様相を呈していて、非常に体調も精神状態も悪く、syrup16gの言葉を借りるなら明日を落としても構わない、むしろそれを望むような状態だった。

 そんな状態だったので、わたしは頑なに友人の言葉を拒み、遠ざけようとしていた。何があっても悲しんだり苦しんだりしないように。わたしのスマホは指ロックがかけてあるし、LINEだってパスコードをかけてあるし、PCもパスをかけてあるので誰も破れない。連絡もないまま忘れられていけばそれでいいと思っていた。少しの希望を捨てられないまま。
 ひどい状態になったのは主に仕事のことで、多くの人の言うことが食い違い何も信じられないどれが正しいのかわからないそんなの聞いてないという袋小路に追い込まれたのが直接的なきっかけだった。それまでも兆しはあったんだけど。
 そんな中、友人たちは言った。「周りの人を悲しませて」「周りの人が悲しむ」と。だけどわたしは、“周りの人”という漠然とした存在を信じることができなかった。人を信じられない状況で、顔の見えない“周りの人”のために生きることなんてできない。そしてわたしは友人たちを突っ跳ねた。

 10年くらい前、ACのキャンペーンで栗山千明が髪をなびかせながらこちらをじっと見て語り掛けるCMがあった。

命は大切だ。
命を大切に。
そんなこと、何千何万回言われるより
「あなたが大切だ」
誰かがそう言ってくれたら
それだけで生きていける。

 わたしは、「自分はあなたがいなくなったら悲しい」と言って欲しかった。人を信じられなくなり、もとより自分のことなんか信じてなくて、だからこそ“周りの人”なんてぼんやりした人ではなく具体的な誰かを求めていた。それが希望であり期待であり求めていた救いだった。
 すべては自分への自信のなさから起こっていて、わたしの勝手な期待でしかないので、友人たちに非はない。だからこそ、わたしは彼らを遠ざけようとしていたのだから。

 自殺防止策の中に、「TALKの原則」というものがある。
  • Tell はっきり言葉に出して「あなたのことを心配している」と伝える。
  • Ask 死にたいと思っているかどうか、率直に尋ねる。
  • Listen 相手の絶望的な気持ちを徹底的に傾聴する。絶望的な気持ちを一生懸命受け止めて聞き役に回る。
  • Keep safety 危ないと思ったら、まず本人の安全を確保し周囲の人の協力を得て、適切な対処をする。
(出典:自殺未遂者の心理と対応について | 北九州市 いのちとこころの情報サイト
「あなたが大切だ。」という言葉は、この原則の中のTellに当たる部分なのだと、少し落ち着いてから気がついた。

 昨日、突っ跳ねた友人と会った。突っ跳ねたにも関わらず、身を案じて的確な指示をくれたのだった。会うことになったのはたまたまという部分もあったけど、あれほどのことをして消耗させたにも関わらず心配してくれた友人には感謝してもし切れない。
 わたしは自分に起きていることを話し、友人はそれを聞いていてくれた。時々、「君は悪くない」という趣旨の言葉を挟みながら。散々話した後、「たぶん、わたしは死にたくないんだと思う。ただ、それしかないと思ってしまった」と言った。「わたしに生きててほしい?」と聞いたら、「うん」というようなことを言ってくれた。
 まだ、生きられる。そんな気がした。

 友人との会話は、先に挙げたTALKの原則に沿うものであると書きながら気がついた。少し形は違うけれど。身を守るための最善策を指示し(Keep safety)、わたしに起きた話を聞き(Listen)、「本当は死にたくないんだと思う」という言葉を引き出し(Ask)、「生きていてほしい」と伝える(Tell)。
 目の前の絶望的状況は変わってないし、体調不良も続いているけど、「生きてていいんだ、生きていたいんだ」という気持ちを確認することができた。それは義務感ではなく、もっとあたたかいものだった。
WHOの自殺報道ガイドラインは最近よく知られるようになったけど、それと同じようにこのTALKの原則が知られて欲しい、少なくとも追い詰められることは減るはず、そう実感した。

 ここまでさらけ出して書く必要なんてないと思うかもしれない。だけどこのブログは自分の記録という部分が大きいので、このことも書いておこうと思った。
 いつかまた、そういう気持ちになったとき、思い出して読めるように。

最近少し歩いている

散歩というよりはウォーキングだ。仕事が始まるまでに、無職期間に落ちた体力を取り戻しておこうという目論見である。最初はRuntasticでウォーキングの記録を取っていた。これは何年も前にダウンロードして使っていて、信号待ちで一時停止した際のオートストップを使えるようにするためにアンロックまでしたものだ。しかし残念ながらウォーキングではオートストップが作動しないことが判明した。それも随分と使ってから。じゃあ走れよと言われそうだけど、関節の作りがゆるいため歩くのは大丈夫だけど走ることに向かない。ということで、Runkeeperに乗り換えた。これは無料でオートストップが使える上、ウォーキングでもちゃんと作動する。おかげで記録が取れるようになった。自己満なんだけどね。
Runtastic - ランニング&ウォーキング
ASICS Runkeeper™ Running App | Track your Run on iPhone and Android
歩きながらボリュームを絞った音楽を聞き流していろいろなことを考えている。今日はそうして歩きながら考えたことを書こうと思う。

失職してから職を見つけるまで、精神的にしんどいところをさまよっていた。一部はこのブログにも吐露していたしツイッターにも書き殴っていた。友人知人は誰ひとりとして、それを引き受けようとしなかった。ただ、見守り寄り添ってくれていた。当たり前の話だ。わたしの苦しみや痛みや悲しみや怒りや寂しさはわたしひとりのもので、誰かに分けられるようなものじゃないからだ。見守り寄り添ってくれたひとたちがいたから、わたしはきちんと苦しみを抱えることができた。友人知人は引き受けようとしなかったけど、もっともらしい説教をするということもなかった。ただただ、見守り話を聞きそばにいてくれた。それだけで、どれだけ力強く立ち向かえただろう。友人知人の取ってくれた対応は、これ以上ないほどベストだった。
わたしは、手が届く範囲で苦しみや悲しみに寄り添いたいと思っている。善く思われたいなんて意味でもなく、もっと素朴なところで。目の前に転んだ人がいるなら手を差し出すような感覚で。だけど、わたしは苦しみや悲しみや怒りを引き受けることはできない。それは個人の中に宿るもので、分かち合う類のものではないからだ。わたしはあなたじゃないし、あなたはわたしじゃない。だから、引き受けることはできないし背負うこともできない。寄り添うことしかできないし、それがきっとベストなんだとも考えている。わたしの境界の中でわたしはわたしの感情を引き受けるけど、わたしの境界にわたし以外の感情を引きこむことはできない。同じように、誰かの境界にわたしの感情を引き込まれることも望まない。ただ、そこにわたしがある、わたしの感情があると認めてくれたら、それでいい。このブログだって、誰かの代弁として書いてるわけじゃないし誰かの感情を引き受けるために書いているわけでもない。ただ、わたしという人間がいて、こういう生き方があると書き残しているし、誰かに寄り添えたらいいと思っている。それ以上はないのだ。
このことがわからなかった頃は随分と苦しい思いをしたし、今でも完全にわかっているとは言えない。相変わらず暗いニュースに感化されてしまうし。だけど、引き受けることはできないときっぱり思うことで、いくらか楽になった気がする。その分冷たい人間だと罵られても構わない。まずは自分の境界を守ることからすべてが始まるのだから。

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