さらさら録

日々のさらさらの記録

『ハピネスウィーツ』

「ナオ、お菓子取って」
ハスミに言われたナオは、間髪入れずに答えた。
「ハスミの今日の摂取カロリーは2100キロカロリー。だから、残りカロリーから逆算すると、今家にあるもので食べていいのはチョコレート1粒かキャラメル2粒くらいだけど、どっちがいい?」
「えー、バタークッキーがあるでしょー?食べたい食べたい」
「ダメ。今日の所要カロリーオーバーするから。続きに集中すれば、お菓子のことなんか忘れるでしょ。残り45分なんだから」
ナオはきっぱりと、勉強の休憩におやつを要求するハスミを突っぱねた。それでもハスミは不服そうにナオを見て、少しして何かを閃いた顔で言った。
「ヴィーツ!ヴィーツがあるでしょ?出してよー」
肩を揺さぶられたナオは、小さくため息をついて渋々銀のビニール袋にパッキングされたそれを出した。
「ヴィーツは残り3つだけど、本当に今食べるの?」
「うん。あ、やっぱりいちじくのタルトが食べたい!さっくさくでバターの匂いがするしっかりしたタルト台に濃くて甘いアーモンドクリームが乗ってて、そこに白ワインの香りがするいちじくのコンポートがぎっしり敷き詰められてるやつ!」
「ハスミ、バタークッキーじゃなかったの?」
「せっかくヴィーツ食べるんだから贅沢してもいいじゃん」
「もう。わかった、いちじくのタルトだね」
ハスミは頷くと、目鼻耳を覆うヘッドセットをかぶった。ナオは右手で銀色の包みを持ち、左手でハスミのヘッドセットに触れた。少ししてナオが手を離し銀色の包みを渡すと、ハスミはぴりりとそれを開けて顔を出した象牙色のスティックバーにかぶりついた。口角を上げて眉と目尻を少し下げてそれを咀嚼する。
「んー、おいしい。けど、やっぱり本物のいちじくのタルトには敵わないなあ」
「やっぱり、ヴィーツじゃ足りないの?」
「うん、完璧に一緒のはずなのに何かが違うの」
「そっか。まあ、ボクにはわかんないからな」
ゆるくウェーブしたショートカットの深い森のような緑色の髪に、冬の夜空をビー玉に閉じこめたように青い目をしたナオは椅子の上で膝を抱えて座り、むぐむぐとヴィーツを食べるハスミを見つめていた。ナオは何も食べない。いつだって、おいしそうに食べるハスミの様子をじっと観察してきた。それがPAIであるナオの業務だからだ。2XXX年、全ての人間はPAIと呼ばれる人工知能と生活していた。Pはパーソナルとパートナーの2つの意味を持ち、主である人間のサポーターであり秘書であり友人であった。PAIにもウェアラブル型や動物型などのタイプがあるが、ナオはハスミの希望で人間の容姿を持って会話し、17年間を一緒に暮らしてきた。

食べ終えて満足したハスミは、「ヴィーツには何が足りないのかなぁ」とつぶやいた。
「今は嗜好品なのに高カロリーのお菓子だけに限定して開発してるって言ってたよね。試行段階だからって」
「でもさ、完璧になったら最高じゃない?30kcalのスティックバーに味や食感や香りを投影するだけで、アップルパイや豆大福やマカダミアナッツチョコになるんだもん。お菓子をいくら食べたって、ナオにカロリーオーバーって怒られることもないし」
「ヴィーツだけじゃ栄養が偏るよ」
「わかってるって。あー、ヴィーツのセミナー面白かったなぁ」
「さ、もう休憩は終わり。まだ残りの勉強があるんだからやらなきゃ。明日は進路面談もあるんだからね」
「はーい」
勉強するフリをして、ハスミはデジタルノートの片隅に自分が考えるヴィーツの想像図を落書きして、その下に「フードテクノロジーエンジニアになるぞ☆」と書き添えた。

人間が眠る時に夢を見る理由は、視覚から得た情報を整理するためだという説がある。PAIも、人間と同じように眠り夢を見る。PAIの場合は、活動中にありとあらゆるセンサーから得た情報を整理して己の人工知能をアップデートし未来予測を行う一連の作業を睡眠時間に行うのだ。その日もハスミの就寝と同時にナオも眠りに入り、アップデートと未来予測を行っていた。
未来予測モードに入って少し経ってから、押し殺した泣き声と胸のあたりに染み込んだ温かな塩水を感知した。ハスミの声が聞こえた。「…して、どうして…できないの…できないよ、ナオ…」
ハスミを起こすために起床予定時刻5分前に目覚めたナオは、これからハスミにしなければならないことを計算しながらハスミの寝顔を見た。

「ハスミ、話があるんだけど」
「なーに?」
「そのタイツ、一昨日履いてた」
「えっそうだっけ、ちょっと履き替えるね」
ショートボブの黒髪に、白くふっくりとした頬と身体。そして、未来に何の曇りもないように透き通って明るい瞳。いつもと変わらないはずのはずのハスミがタイツを履き替える姿を、ナオはいつも以上に注意深く観察していた。この後に自分がしなければならないミッションのために。それがPAIの仕事なんだから、とナオは自分に言い聞かせながら家のドアを閉めた。結局タイミングを窺い続けたナオがハスミに話を切り出せたのは、ライブラリルームで面談の順番を待っているときだった。
「ハスミ、面談の前にちょっといい?」
「何?今日のおやつどうするかって?」
「そうじゃなくて、未来予測のこと」
ハスミはデジタルノートに走らせていた手を止めてこちらに向き合い、夜空色のナオの目を見つめた。ナオもハスミの目を見て対峙し、抑えたトーンで口を開いた。
「ハスミは、フードテクノロジーの分野に進んではいけない。フードテクノロジーはハスミを幸せにしないし、ハスミには完璧なヴィーツも作れない」
――PAIの掟には「未来予測で主の不利益や不幸を呼ぶ選択は未然に防がねばならない」とある。ナオは掟に従い、ハスミに冷酷とも言える未来予測の結果を告げた。
「…知ってるよ」とハスミは答えた。それは、ナオが予測していた答えのうちのどれにも当たらなかった。ナオの目線が一瞬ハスミから外れて空を泳いだ。
「だって、どれだけ完璧に計算したって、嘘か嘘じゃないかって言ったら嘘になるよ。だけど、その嘘をどこまで本当にできるのか、どうやったら本当のお菓子に99%以上近づけるのか、私はやってみたいの」
一息に話したハスミは、手元の水を口に含んだ。
「たくさんの人に、私の大好きなお菓子をカロリーや栄養なんて気にしないで食べて幸せになって欲しいの。ナオとならできるって信じてるから。私は絶対フードテクノロジー専攻のあるユニバーシティに行くよ」
その瞬間、ナオの中でアラームが鳴った。一瞬、ナオには何のアラームなのかがわからなかったが、それは教師のPAIが飛ばしたシグナルだった。「面談、ハスミの順番来たって。行っておいで」
手を振りながら、ナオは混乱していた。PAIの掟には「主の希望に応えること」も刻まれている。未来予測で判明した不幸になる事態は避けなければならない、だけどハスミの希望にも応えなければならない。それに何より、ハスミは「ナオとならできる」と言った。自分とならできる?それはどういうことなんだ?ありえない、仮にもPAIである自分がこんな混乱に陥るなんて。ああ、そうか、これが「悩む」だとか「苦しい」というものなのか。いや違う、故障だ――ナオの思考はそこで途切れた。

ハスミはホスピラボの一室で息を弾ませながらナオと面会した。ナオは、無意識下で故障のシグナルをホスピラボとハスミのPICチップに飛ばして故障した。ナオは軽症で、通常なら自己修復する程度のオーバーヒートだったけど何らかの要因で修復が間に合わなかったということだった。もう修理も終わっていて、ハスミが来るのを待ってスリープ状態に入っていた。
「ナオ」
深緑の髪の奥でまぶたが開いた。「…ハスミ?あれ、ボク…故障してなかったのか」
「うん、故障と呼べるほどの故障じゃなかったみたい。さ、帰ろうよ」
ハスミは手を引いてナオを立たせた。「久しぶりにさ、こうやって歩いて帰ろ。ね」
川沿いの道は、夕陽をきらきらと反射して鱗のように光り、1人と1体の影も長く伸びていた。お互いに口を開くことなく、そのまま黙々と手をつないで歩き続けた。ずっと昔、はぐれたハスミを迎えに行った時と近似値にある夕暮れだった。
「ねえ、ナオ」返事を待たずにハスミは続けた。
「私ね、フードテクノロジーやるって話してきたよ。このまま成績キープすれば選考も通るだろうって」
ナオは何も答えず、リソースのほぼすべてを聴覚に注いだ。
「つらいことも泣くこともたくさんあると思うけど、やっぱりヴィーツを諦め切れないんだ。いつかヴィーツを究めたいし、他にも作りたいものがあるの」
「あのね、ナオが食べられるお菓子を作りたいんだ」
思わずナオは足を止めた。
「ボクが食べられるお菓子…?」
「うん。いつも私が食べるのを見てるばかりでしょ。そうじゃなくて、ナオと一緒に食べられるようなものを作りたいの」
「…!」
口の周りをべたべたに汚しながらチョコレートパイを食べている幼いハスミ。堅焼きせんべいを盛大に音を立てて噛み砕くハスミ。レモンの砂糖漬けをかじって酸っぱい顔をするハスミ。ソフトキャンディを噛んで歯のケアチップを外してしまったハスミ。ポテトチップスの袋を逆さにして細かい破片を直接口に流し込むハスミ。むっちりと麩まんじゅうを引き伸ばして食べるハスミ。一緒にホットケーキを焼く途中で生地をぺろっと舐めるハスミ。数秒の動画が真っ暗な世界に浮かんで消えていく。ナオがホスピラボでのスリープ中に見た夢のどれもが、口角を上げて眉と目尻を少し下げてお菓子を食べるハスミの姿だった。
そのハスミの姿と、目の前で力強く希望を語るハスミの姿の間をパルスが辿った。PAIの掟を壊したいという強い衝動がナオの中を駆け巡った。ナオは、ハスミの手をぎゅっと握った。
「…やろう、ハスミ。一緒に」
「ナオ。…ありがとう」

その夜、ナオの未来予測の中に、ぼやけた淡い光と一つの言葉が現れた。
「ハピネスウィーツ」
一緒に作ったホットケーキの甘い匂いと味を、ナオはその文字から受け取った。

(完)


☆ * ☆ * ☆


久しぶりに参加しました。


【第4回】短編小説の集いのお知らせと募集要項 - 短編小説の集い「のべらっくす」

最初に考えていた話が全然進まなくて、ふっと降りてきた話に乗っかった結果わたしなりに「すこし・ふしぎ」なお話になりました。
ネクストワールド感溢れております。
書きながら、甘いものを食べたくなるお題でした。

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