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さらさら録

日々のさらさらの記録

ネットで痛みを告白することと、その反応の話

ネットのこと 考えたこと

ここ最近、ネットで痛みを表明した女性が燃やされていました*1。そこにぶつけられる言葉を見て、わたしは真っ先に出てくる悲しみでいっぱいになって、言葉を発することができなかったのです。
だけど、「ネットに書かなければ炎上することもなかったのに」とまで言われているのを見て、それは違うんじゃないだろうかと思い、こうして今、考えたことを書き残しておきたくて綴っています。

ある芸人の復帰と「トラウマ」の話 - いつか電池がきれるまで

この件に関しては何よりも先に悲しさが来てしまって何も言えずにいるんだけど、このエントリの視点は優しいと思ったしこういう感覚を持ちたいと思った

2015/01/07 17:08

このエントリを読んだことで、少しずつ言葉が出てくるようになったということもあります。


痛みを受けたことを、それを「痛い」と感じたことを表明すること自体は、とても大切なことです。ネットに書くことでその痛みについて知られるだろうし、書き手自身書くことでその痛みが整理される部分だってあるのですから。それに何より、言論は自由だから痛みを受けたことについて書くことは自由です。そして、明らかになった痛みに対して反応することもまた自由なんです。

だけど、当たり前だけど、自由なら何を書いてもいいってことではないのです。
そこに、誹謗中傷や人格否定があってはいけないんです。自由とは、個人の尊厳の上に成り立っているものだから。画面の向こうには、生身の人間がいるのだから。


参考リンク

芸人さんの復帰が怖いという気持ち

はてなブックマーク - 芸人さんの復帰が怖いという気持ち - ある日の日報*2


もう一度言うけど、個人的な恐怖や嫌悪感や痛みを書くことには何も問題はないんです。そこに何かしらの反応があることも、問題ではないんです。その個人的な恐怖に対する個人的な嫌悪感の表明という応酬もあるでしょう。
でも、最近のネットでは、痛みを表明した人に対して必要以上の暴力的な言葉が浴びせられるような風潮を感じています。人としての尊厳を守るための、最低限の言ってはいけないハードルをやすやすと越えて行ってしまうように見えることがあるのです。
過度の言葉は自由を奪い、新たな争いの種となることもあるでしょう。そんな世界を、わたしは望みません。


人の痛みに完全に寄り添うことなど、できるものではありません。だけど、痛みから目を逸らして暴力的な言葉を投げつけるのではなく、その痛みを真っ直ぐに見ることは、きっとできるはずです。
誰だって、何かしらの痛みは抱えているのだから。自分の痛みに対する痛覚のうちのほんの少しでも他人に対して持てたのなら、もう少しだけ世の中が寛容になるんじゃないかな。甘いのかもしれないし何度も痛い思いはしてきたけど、そうした希望はまだ、わたしの中に残っています。そして、これからもきっと持っていくのでしょう。

いつまでも誰もが強くいられる世の中ではないからこそ、暴力的な言葉を指先で叩きつける前に、ほんの少し他人を思う気持ちを持ってもいいと思うんです。そうしたら、この不完全で生きづらい世の中が、他人だけでなく自分にとってもちょっとだけ変わるかもしれないよね、程度のことなんですが。そして、個人の思い遣りを担保にするような、ほんの少しの思う気持ちを期待してもうまくいかないよね、ということもわかっているのですが。


痛みを表明した人が叩かれることに対して積極的な方策が思いつかなくて、抽象的な言葉で語るだけになってしまったけど。
個人がそっと痛みを告白することさえも許されないネットや世の中になってしまいませんように。




ゲルニカ - YouTube
このエントリを書く間、ずっと中村一義ゲルニカが頭に鳴り響いてた。

新世紀だろうが 何も変わりやしない 
見てみなよ 独裁者が叫ぶ 
革命はエゴさ

目をそらさずに見て欲しい 本当にあることから 目をそらさずに
何枚ゲルニカのレプリカを、描いては焼いたのさ?

今まで何度も繰り返してきたことは、これからも繰り返されるのかな。

*1:「炎上した」とは敢えて言わない

*2:元記事のタイトル変更がはてブには反映されていない…

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