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さらさら録

日々のさらさらの記録

死ぬことよりも怖いこと

春は人を狂わせる。

 ご多分に漏れず、わたしも精神的に調子を崩しがちである。ただでさえ調子を崩しているところに処理能力を超えたことが次々起こるのだ。そして余計なことまで考えてしまい、それを整理しようとこうしてブログを書いている。

 わたしは常々、死ぬことを怖いことだと思ってはいない。しかし、何かで突然死んだとき、知らせて欲しい人にすらわたしの死を知らされることはないのかもしれないと思うと怖くなる。わたしのスマホは常に指ロックがかかっているし、LINEもパスコードがかけてあるので、わたし以外の人間が見ることは難しいだろう。そして、見れたところでわたし以外の人間が、わたしの使っているSNSすべてに連絡をしてくれるとも限らない。
 突然、ツイッターも途切れブログの更新もされなくなって、それがわたしの死によるものだと知らされることなく世の中が回っていくことが怖い。リアルで仲良くしている友人ですら、連絡先を知らないからと何の連絡もいかない可能性だってある。それはとても怖いことだと思うのだ。

 同じように、親しく交流していた人が突然亡くなっても、そうして知ることができないのかもしれないと思うととても怖い。死んでいるということも知らず、生きているはずだときっと思い続けてしまう。それをとても怖いことだと思う。
 ネットの緩いつながりなんて、そんなものかもしれない。だけど、そんなもので断ち切れるだろうか。わたしに優しくしてくれた人たちを。
 1年少し前、ツイッターで親しく交流していた子が亡くなった。生前に会うことは叶わなかった。彼女は死の前にスマホのロックを解除していたため、ツイッターでひっそりとその旨を知らされた。おかげで彼女にお悔やみを伝えることはできたが、SNSのアカウントは今も生き続けている。今は亡い彼女の誕生日に、Facebookが「今日は○○さんの誕生日です!」と通知してきたとき、どうしようもなくやるせなかった。もういない、あの子はもういないんだよと叫びたかった。

 死自体を怖れていないとはいえ、不在を知らされないことを怖れているのは、たぶんわたしの中に生やこの世界への執着があるからなのだろう。この世界と言っても、自分の半径5mくらいの世界だけど。それは自分が欠けても誰かが欠けても成り立たなくなるもので、その欠損を認めるための知らせがないかもしれないということは恐怖でしかなかった。
 先日、Facebookの設定を見ていたら、こんな項目を見つけた。

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“追悼アカウント管理人”
 こうしたものが設定できることに驚いた反面、やはり需要があるのだろう。だけどきっと、それには限界がある。知らせて欲しい人のリストと、SNSのIDやパスを管理する仕組みがないのなら手帳に書き留めておけば身内の誰かは気づいてくれるだろうか。そんなことを真剣に考えている。
 自分の半径5mの、愛おしい世界のためにも。

春は人を狂わせる。
 こうしてわたしは、考えすぎだとわかってはいても、もしもの可能性を否定できず考え続けるのだ。ああ、もう目が覚めてから2時間弱だ。
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