さらさら録

日々のさらさらの記録

帰る場所なんて、最初から持ちあわせていない

最近ちょこちょこと東京に行ったり、お盆で帰省するツイッターのタイムラインを眺めていたりすると、改めて思うことがある。それは、わたしには帰る場所がない、ということ。
両親とも名古屋生まれ名古屋育ちのため生まれてこのかた帰省したことがないだとか、生まれ育った家は取り壊されていて今はないだとか、同居する親との折り合いが悪いだとか、そうしたことではない。その取り壊された家に住んでいたのは中学3年を半分過ぎた頃だったんだけど、その家に住んでいた頃から、「わたしの帰る場所はここじゃない」と思っていた。学校に行き、帰宅し眠る。その日常の行動の中で歩く一歩一歩に、「帰る」「場所が」「ない」という思いがまとわりついていた。

これはたぶん、わたしが根無し草気質だからだと睨んでいる。学校にしろ会社にしろそれ以外の所属にしろ、あんまり長くひとつのところにいられない。直近で勤めていた会社は大きくしっかりしたところで、中途で入ってくる人もなく、新卒で入社したらその後誰もが定年まで勤めることを信じて疑わないような環境だった。その安定を少しだけ羨みながら、それでも自分にはその生き方ができないと思いつつ、住宅ローンの残金や定期異動なんかの話をする彼らを眺めていた。安定はわたしから最も遠い言葉のひとつで、根無し草のようにふらふらしながら思わぬ方向に転がり続ける人生を過ごしていくことが、きっとわたしの性分に合っているんだろう。

帰る場所なんて最初から持ちあわせていないし、レールなんてものもなかった。世間では理想とされる人生の真逆を生きていると思うし、転職の面接で「この大学を出てこんなことになってるなんてもったいない」とも言われた。もったいないのかどうか、よくわからない。学びたいことを学ぶために進学はしたけど、就活の頃はひどいうつ状態で大学に通うのが精一杯という状態だった。社会的にも精神的にも安定というものから遠いせいか、安定という道を選ばなかったことがもったいないという感覚がなかった。そもそも、この社会に安定ってあるのかな。

根無し草気質であることや、安定を知らない人生だということはきっと今更どうにもならないしそのまま生きていくしかない。端から見たら愚かだったり理解できなかったり不幸な人生に見えたりするんだろう。だけど、わたしはこの不器用で不格好な生き方しかできない。そして、不器用で不格好なりにささやかに願う。誰かにとって、「帰る場所」とまではいかなくても「ここに寄れば迎えてくれる場所」くらいの存在にはなりたい、と。自分が「ただいま」と言えない分、「おかえり」と言えるように。

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名古屋市役所は、国の重要文化財指定を受けている。市役所や県庁を見るたびに、わたしはいつも遠いと思ってしまう。
名古屋の街は永年過ごしているせいか馴染むし愛着もあるけれど、もし名古屋以外で生まれ育っていたとしても同じように愛着を持っていた気がする。
わたしは、名古屋だろうと東京だろうと横浜だろうと大阪だろうと浜松だろうと三重だろうと豊橋だろうと長野だろうと岐阜だろうと、変わらず道を聞かれる。そしてわたしは一緒に路線図を見たりスマホGoogle Mapsを取り出したりして答える。旅先であろうと、そこにいるのはわたしであることに変わりはない。
帰る場所がなくたって、どこであろうとも、仮の住処であろうとも、わたしがわたしでいる限りはそこが生きる場所なんだろう。
そして、わたしがわたしである限り、心は自由にどこへだって行けるのだろう。

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