さらさら録

日々のさらさらの記録

幸せを願うということ

今日、わたしは無事に誕生日を迎えた。
0:00ちょうどにLINEを入れてくれたひとがいたのに気づかなかったり、虫歯が痛んで冷たいものがしみたりといきなりやらかしまくってしまったけど、とてもわたしらしい…というか通常運転だった。
お祝いのLINEやfacebookコメントへの返信以外は。

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※このケーキは今日食べたわけではない



1年前のわたしと今のわたしと何が違うか、挙げたらきりはないけど。
わたしの幸せを心から願ってくれる人たちが増えたのはとても大きい。
それは今の会社のひとたちだったり、このブログを読んでくれたひとたちだったりするけど、自分で今の会社に応募したりブログで過去をさらけ出すことを選んだ結果運がついてきてくれたんだろう、と思っている。
今までの経験上、選択の結果がよい方に出ることなんてそうそうないと思っていたけど、今は「自分が選んだ未来に立っているんだ」と言い切れる。


「なんでそんな、わたしの幸せを願ってくれるんですか?」と、会社の友人に聞いたことがある。
「だって、こんなに一生懸命生きてて、能力もあって、何事もがんばってる子には幸せになってほしいじゃない」と言われた。泣くのを必死に堪えた。
わたしが常々親しい人たちに幸せになってほしいと願っているように、わたしも幸せを願われていた。
決してわたしは、よく言われるように一生懸命だったり真面目だったり優しかったりするわけじゃない。
不器用で要領が悪くてうまく生きる術を持ち合わせていなくて、真正面から向き合うことしかできないだけの人間だ。
それなのに、わたしを認めるだけでなく、幸せまでも願ってもらえるなんて。

いや、今までだって幸せを願ってもらえてたんだ。
ただ、わたしがそれに気づけなかった。気づく余裕もなかった。独りで戦っているような顔をして生きていた。
そんなことはなかったのに。
手遅れになる前に、気づけてよかった。



わたしの人生のうち、3分の1以上はいじめとうつで記憶が欠落している。
そのせいか、学生時代に身に着けるであろう人付き合いのやり方だとか、自己肯定感だとか、きらきらした青春の思い出だとか、コミュニケーションスキルだとか、そうしたものを得ることができないまま大人になり時間が過ぎた。
わたしの生き方を不器用にしてる理由のひとつはここにあると思うけど、だからといって時間は不可逆でやり直せるものでもない。
足りないのなら足りないまま、不器用で不格好で幼くてもいいから、それでも生きていくしかないのだ。
だって、幸せを願ってくれるひとたちがいるから。
わたしは生きていけるだろう。きっと。



親しい人を受け止め願うように、自分を受け止めて幸せを願える人間になりたい。
いつだって立派な人間でいられるはずはないけど、守るために、強く優しくなりたい。
これが、今日ちょうど30歳になったわたしの願い。

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