さらさら録

日々のさらさらの記録

『水槽に沈む』

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 シュー、ゴポゴポ。
 隣のベッドが空いた2人部屋に、その音は静かに響いている。壁から発せられたシューという音は、蒸留水のタンクを潜りゴポゴポという音に変わっていく。澄子はパイプ椅子に腰掛け、その音を聞いていた。目の前には酸素マスクをつけ、覚めきらない全身麻酔で眠る父親が横たわっていた。父は時々手を動かして酸素マスクを外そうとし、そのたびに澄子は顔についた水滴をガーゼのハンカチで拭いマスクをつけ直した。
 
 澄子が救急隊から連絡を受けたのは、まさに始業前にロッカーで支度をしていたときだった。
「お父様が倒れまして、恐らく緊急手術になりますので準備をして◯◯病院までお願いします」
澄子はその足で今日明日会社を休むことをチーフに告げ、実家に戻った。実家の鍵は自宅の鍵と一緒にいつも持ち歩いていた。寝間着は病院のレンタルを使うとして、タオルや歯磨き道具やポリデントや洗面器や石鹸や箸・スプーン・フォークやコップや携帯ラジオを手頃なボストンバッグに詰めた。慌ててタクシーで病院に向かうと、父は手術室待ちでとりあえず薬を投与され眠っていた。
 医師の説明によれば、日課の散歩に出た先で倒れたらしい。いつもあれほど口を酸っぱくして言っても持ち歩こうとしない携帯電話をきちんと持っていたため、すぐ澄子に連絡が取れたのだそうだ。何か感づいていたのかもしれない、と考える間もなく、澄子は目の前に積み上げられた書類にサインする作業に追われた。手術の同意書、入院の同意書、全身麻酔の同意書、傷口の痛みを緩和するブロック麻酔の同意書。入院の同意書にサインしている最中に、保証人の欄を見つけた。
 「あの、保証人って同居していなければ誰でもいいんでしょうか」
 「はい。ですので、今別々にお住まいとのことですから、娘さんの住所と連絡先と名前をいただければ結構ですよ」
自分の住所と名前と連絡先を書き入れている間に、手術室の用意が整った。「手術が終わったら連絡しますので」と医療用PHSを渡された澄子は、銀色の重厚な扉に吸い込まれていく父を見送った。
 澄子はいったん病室に戻り、持ってきた荷物を広げた。そこでようやく弟妹への連絡を忘れていたことに気がついたが、弟も妹も仕事中だからと、メールで連絡を入れた。3つ下の弟は東京で働いており、5つ下の妹は結婚して日本海側で兼業主婦をしていた。しばらく返事は帰ってこないだろう。ふっと一息ついて、澄子は強烈な空腹を覚えた。時計の針はいつの間にか午後4時近くを指しており、澄子は昼食はおろか水さえも飲んでいなかった。
 
 シュー、ゴポゴポという音を聞きながら、澄子はメッセンジャーアプリを開く。
[ごめん、今週土曜はゴルフ入ってて戻れそうにない。姉ちゃん、父さんのこと頼んだ]
[姉ちゃん、ありがとう。旦那の都合でお見舞い行けそうもなくて、なんとか都合はつけるようにするけど、父さんのことお願いね]
読み返して、澄子はスマートフォンをバッグにしまった。父は、時々麻酔が切れかけているからなのか小さく呻いていた。手術後、医師は言った。幸い命に別条はなく後遺症も残らないが、再発を防ぐためには厳密な服薬管理と通院指導が必要になること、食餌療法が必要になることを。
 シュー、ゴポゴポ、シュー、ゴポゴポ。澄子は目を閉じる。自宅にあるアクアリウムを思う。悠然と泳いでいるであろうフルブラックリボン、ハイフィンレッドアイバルーンソード、メタルピングータキシード、モスコーブルー、ペンギンテトラたち。澄子は何気なく熱帯魚ショップで見かけたフルブラックリボンの気高い美しさに惚れ込み、アクアリウムの置ける部屋に引っ越した。水草をレイアウトし、砂利を敷き詰め、お気に入りの魚たちを放ったアクアリウムがあればきっとずっと生きていけるとさえ澄子は思っていた。就職と同時に実家を出て市内で一人暮らしを始め、弟妹が家にいる間に母を見送り、彼らが実家を離れても澄子は淡々と地元の会社で働き続けた。結婚することもなく、気づけば30半ばとなり、自分にはなにも残らないと思い始めた矢先にフルブラックリボンに出会ったのだ。
 悠々と泳ぐフルブラックリボンは、真っ黒でありながら角度によって深い青や紫にも姿を見せる。ひらひらりとリボンを漂わせながら泳ぐその魚を、自分の手に持ちたいと思った。澄子の人生の中で、あれほどまでに何かを手に入れたいと思ったことはなかった。自宅のアクアリウムを眺めている間は、仕事で起きたことも将来への不安も水に溶けていくような穏やかな気持ちでいられた。
 今の私には、アクアリウムが足りない。シュー、ゴポゴポという音だけを頼りに、澄子はアクアリウムを思い出していた。その音は、アクアリウムに流し込まれる酸素の音に少し似ていた。
 
 病室のカーテンは、上が格子状になっている。そこから差し込んだ光で、澄子は目を覚ました。いつの間にかうたた寝していたらしい。父も麻酔がだいぶ切れたらしく、澄子の姿を認め「おはよう」とつぶやいた。
「おはよう、お父さん。気持ち悪いとかない?麻酔のあと吐く人いるって聞いたんだけど」
「別に気持ち悪くない。酸素マスク邪魔。お茶飲みたい」
「わかった、ナースステーション行ってマスクとお茶聞いてくるね」
澄子はナースステーションを目指して歩いた。一歩一歩に、決断を迫られながら。
「すみません、1205室の西口です。父がマスク外してお茶を飲みたがってるのですが」
「あ、はい、ドクターの回診までは我慢していただけますか。一応点滴しているので水分不足はないんですが、ちょっと口が気持ち悪いのかもしれませんね。うがいならしていただいて大丈夫ですよ。検温の際に私からもお話ししますね」
妹と同じ年頃といった塩梅の看護師は、はきはきと答えた。
「お父さん、診察までそのままだって。お茶飲んじゃダメだけどうがいならしてもいいって」
「なんだ、飲んだらいかんのか。じゃ、いいや」
「ごめん、診察来るまで辛抱してね。私、外でごはん食べてくるから」
澄子は病院併設のコーヒーショップに向かおうとしてエレベータに乗り、鏡に写った自分を見て思わず笑った。セットの乱れた頭、剥がれているメイク、目の下に刻まれたクマと皺。見慣れないほどひどい姿だったけど、いつかきっとこんな自分にも慣れていくのかもしれない。外来待ちの患者さんで溢れるコーヒーショップの隅で、もそもそとサンドイッチを食べアイスコーヒーで流し込む。あまり味はしなかったけど、病室に戻る気もあまり起きなかった。

 シュー、ゴポゴポ。澄子はバスドレスのまま、濡れた髪も乾かさず床に座り込んでアクアリウムを眺めていた。手にはアイスティーフレーバーの缶チューハイ。シュー、ゴポゴポという水中ポンプの音の後ろでかすかにシャワーを浴びる音がする。澄子の小さな空間で、魚たちはアクアリウムの中をいつもと同じように泳いでいた。
「フルブラックリボンはグッピーの一種なんですけど、何回も品種改良してやっとこの姿になったんですよ」
熱帯魚ショップの店主の言葉を思い出す。品種改良を重ねた姿で水槽に生まれ、そして水槽の中で死んでゆく。フルブラックリボンだけではない。他の魚たちも、手入れされた水槽の中でいずれは死んでゆく。尾びれとリボンを水に揺らしながら、フルブラックリボンがミクロソリウムプテロプスの葉を潜りターンした。
 シャワーから出てきた元恋人は、静かに涙を流す澄子を背中から抱き締めた。澄子の目から洪水のように涙が溢れ出た。元恋人の左腕を掴み、しゃくり上げて泣く。元恋人はなにも言わずに右手でそっと澄子の髪を撫でた。仕事と澄子を諦め、隣県の実家に戻り家業を継いだ元恋人にできることはそれだけだった。隣県の実家に戻り交際関係を解消してからも、澄子と元恋人はずっと連絡を取り合い、時に食事やセックスをする仲であった。澄子から連絡があり、嫌な予感がした元恋人は家業の都合を何とかつけて慌てて駆けつけたのだった。過去の自分の傍に澄子がいてくれたのと同じように、澄子が潰れてしまわず選択ができるように。
  呼吸が落ち着いてきた澄子は、消え入りそうな声で「来てくれてありがとう」と述べた。
 「澄ちゃんが『大丈夫』って言って大丈夫だったことなんて、1回もないからな」
澄子からのメッセージの最後は、[何とかなると思うので、心配しないで。大丈夫]と締められていた。

 父が退院するまでの1ヶ月弱の間に、仕事に通いながら魚たちおよび水槽や装置の譲り先を探し、父の主治医やソーシャルワーカーと今後について相談し、荷造りをするのは並大抵のことではなかった。熱帯魚ショップの店主は快く譲り先探しの相談に乗ってくれ、「丁寧に飼ってくれているから最悪うちで預かってもいいよ」と言ってくれた。幸い譲り先も決まり、元恋人の手伝いもあってどうにか荷造りも終えた。段ボールが積まれた部屋で、澄子は水槽のあった場所を見つめる。白い壁に、そこにあった75cm水槽が浮かび上がる。小さく息をついた澄子は、その場所に小さく礼をした。
 引越し業者に荷物を搬出してもらい、元恋人の車でこれから暮らす実家に向かう。場所を作ってやっと実家に置いた30cm水槽の中で、フルブラックリボンはいつものように泳いでいるだろう。美しい尾びれとリボンを濃紺に紫に輝かせながら、ゆったりと。


参考1:QUBE(キューブ) | 初心者向けアクアリウム情報WEBメディア
参考2:熱帯魚図鑑|飼育・混泳・繁殖・病気など

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