さらさら録

日々のさらさらの記録

家のことは、なかなか言えない。だからこそ

わたしの家には、少々(?)問題がある。
そしてそれは、わたしの人格形成に影響を及ぼしているし、現在進行形でじわりと苛んでいるものでもある。


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そんなわたしだけど、時々、ツイッターで家のことの面白エピソードみたいなものを書くことがある。昼休みには家のことを笑いに変えて話す。
でも、そこから、もし「いい親だな」と思うなら、それは間違いだ。
ツイッターに家のいざこざの断片を書くこともある。
それを読んで、「大したことないじゃん」と思ったなら、それもまた違うことだ*1


自分の中で、上澄みの中の上澄みを掬い取って残ったエピソードや、ドロドロの澱を何度も丹念に漉したものを書き残すのに留まっているだけなのだ。
多かれ少なかれ誰にでもこうした部分はあるのだろう、きっと。
沈んだ部分や、漉して残った澱は、決して書かないし言えない。簡単に話せることではないから、心の中にどんどんどす黒く溜まっていく。
なのに、なぜそこまでして話すのか書くのかと言ったら、100を抱えるよりネタにできる部分はネタにして99を抱えたほうが、まだ気が楽だからだ。


家族は壊れるもの。
親は子を呪い縛るもの。
家は大人になったはずの子を閉じ込めるもの。
親というだけで、無条件に赦され愛され感謝されるなんてないということ。

こんなことを言ったら、怒る人もいるだろう。理解できない、理解しようともしない人も少なくないだろう。
だからわたしは、上澄みだけを話す。その下に底なしの澱があるとしても。


だけど本当は、その澱を抜かなければならないこともわかっている。
現状は何も変わらなくても、話すことで少し浄化されることもわかっている。
似た境遇の人とお互い、言いっぱなし・聞きっぱなしで話すことができたら、背負う物がちょっぴり減るのかもしれない。


わたし自身へ、わたしの周りの家に悩む人へ。  
そして、家に悩む人へ。
話してよ、話してないことを。話せる範囲でいいから。話せる相手だけでいいから。
話すことで、99背負ってたものが95になったら、数字以上に軽くなるはずだから。


…と、絶賛家に振り回され中のわたしが書くのでした。

*1:はてブには割といろいろ書いてる気がする

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