さらさら録

日々のさらさらの記録

「あんた、謝ればいいと思ってるでしょ!」

トピック「謝罪」について言及しているブログをざざざっと読んで、突然タイトルの言葉が頭に鳴り響いた。
小さい頃から、何千回となく聞かされたヒステリックな母の声。
わかったようなわかってないような顔で眉を寄せて唇を歪めて泣きそうになりながら、「ごめんなさい、おかあさんごめんなさい」と繰り返すわたし。
その姿が突然フラッシュバックして、気づけばわたしは泣いていた。
少し落ち着いた今、このことについて書こうと思う。

すぐ謝る人間ができるまで

わたしは、よく母に叱られる子どもだった。
もちろん、悪いことをして叱られることはあった。
だけど、母が理不尽に怒り当たり散らすことも多々あった。怒りの矛先は、長女のわたしに向かった。
母が同居の祖父に対するストレスや、祖父の仕事のお客さんへのストレスを溜めていたこと。それを、わたしに当たることで発散していたこと*1
そんなことは、子どものわたしにはわからなかった。
ただ、母は猛烈な勢いで怒る人だった。いや、今も。

「わたしは悪くなくても、本当はわたしが悪いから、おかあさんは怒ってるんだ。わたしが悪いから、おかあさんは機嫌が悪いんだ。
 これ以上おかあさんを怒らせたくない。わたしのせいで怒らせちゃったんだから、謝って怒るのをやめてもらわなきゃ。
 おかあさんも怒ってるのかわいそうだし、妹*2も怖いだろうし、わたしが悪いんだからわたしが謝ればいいんだ」
ただ、その一心で謝った。
「おかあさんごめんなさい」と言うたびに、母は更に逆上した。
「あんた、謝ればいいと思ってるでしょ!口先ばっかで何も反省してないくせに!
 すぐ「ごめんなさい」って言って泣けば済むって思って言ってるってわかってるんだからね!
 あんたの「ごめんなさい」は怒られるのを終わりにしたいだけなんだから!」と。

このモードに入った母はある意味無敵である。
いくらわたしが幼いなりに自分の否を認め(否がなくても)「何が悪かったから、次はこうする」と言葉を尽くして反省の弁を述べようとしたところで、「そんなん言い訳でしょ!」と一蹴する。
わたしが発する言葉すべてを跳ね除けるのだ。
だからと言って黙ってると「自分が悪いのに何を偉そうに不貞腐れてるの!」と怒られる。沈黙も雄弁も金銀パールも怒りモードの母には何にもならない。
結局、「ごめんなさい」以外の言葉の選択肢をなくしたわたしは、母の怒りが根負けするまでしょげて半泣きになりながら許しを乞い謝り続けたのだった。

そしてわたしは、すぐ謝る人間になった。

わたしの頭は、とても重たくできている

謝ることは、人の怒りを軽減させ、不快な思いを少しでも和らげるためのもの。
そして、自分を責めるためのものであり、自分を守るためのもの。
子ども時代からの経験から、わたしは「謝る」という行為をそのように身体に染み込ませた。
その結果、謝ることや頭を下げることに何の抵抗もない人間になった。

ミスをしたら、「ごめんなさい」。
そのミスをカバーしてもらったら、「ごめんなさい」。
人とぶつかってしまったら、「ごめんなさい」。
レジでお釣りを落として拾ってもらったら、「ごめんなさい」。
クレームで怒鳴られたら、「ごめんなさい」。

とにかく、迷惑をかけたと思ったら反射のように口をついて出るのは「ごめんなさい」の言葉。
もはや口癖となってしまったこの言葉は、生き方も人付き合いも不器用なわたしにとって、潤滑油でありお守りのような言葉だった。
不用意なことを言って要らぬ軋轢を生むくらいなら、謝って許してもらうなり怒りを収めてもらうなり嫌な気持ちを軽くしてもらったほうがよっぽどいい。

そして「ごめんなさい」と言い続ける人生を送っていたわたしは、ある人から言われた。


「ごめんなさい」より「ありがとう」が言えるように

「なぎさらちゃんは、謝らなくていいときにも「ごめんなさい」って言っちゃってる。
 でも、そうじゃないよね。謝らなくていいときに「ごめんなさい」って言うのはやめようよ。
 「ごめんなさい」より「ありがとう」って言ったほうが、自分も相手も気分がいいよね。
 少しずつ、「ありがとう」って言っていこうよ」

目から鱗だった。
ケース・バイ・ケースではあるけど、迷惑をかけたこと対して謝るよりも、そのフォローに対するお礼を述べたほうがいいということ。
お礼を言うこと自体を知らなかったわけではない。
ただ、「ごめんなさい」の一部は「ありがとう」に置き換えられる、という概念は、わたしの中にはなかった。
言われた食事の席で、自分の席から遠くにあった醤油を取ってもらったとき、さっそく「ありがとうございます」と言ってみた。
取ってくれた人は軽く微笑んで「どうぞー」と言い、わたしも微笑んで醤油の瓶を受け取った。
「ごめんなさい」って言うより「ありがとう」って言ったほうが、より滑らかにコミュニケーションが取れることもある。
今までの「ごめんなさい」観が崩れていくのは、気持ちよくもあった。


それから5年ほど経って、今のわたしはどうかと言うと、やっぱりどうしても咄嗟に「ごめんなさい」と言ってしまう癖は完全に抜けていない。
それでも、少しずつ「ありがとう」と言えるようになったり、「ごめんなさい」と言っちゃったあとに「ありがとうございます」と付け足すこともできるようにはなってきた。
それと同時に、謝る場面と謝らなくていい場面がわかるようになってきた。
「ごめんなさい」と言うたびに心の隅に沸き起こっていた怯えも、顔を出すことはあまりなくなった。
謝ると同時に自分を責める癖も…少しは軽くなってきたかな…。




「謝る」という行為は、他者へ影響を及ぼすだけでなく、自分自身の思考や背景をも映し出す。
わたしは、「謝る」という他者へ向けた行為の中で、自分を見つめ、そして見つけた。
わたしはもう、他に術がなくて泣きそうになりながら謝り続ける子どもじゃないんだ。

*1:このことは精神疾患を悪化させた際に以前の医師が母に指摘した。そして母はわたしに謝った。だけど結局今も理不尽爆撃はなくなっていない

*2:わたしは二人姉妹の長女であり、理不尽爆撃を受けるのはいつもわたしだけだった。長女なんてそんなものである

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