自殺報道がこの上なく苦手です
センシティブなエントリのため、閲覧に注意願います。
今、比喩ではなく文字通り震える指で書いてる。
わたしは朝、テレビのニュースを見ることができない人間だ。
ネガティブなニュースを見ると感化されて落ち込み、その日のパフォーマンスに支障が出てしまうのだ*1。
そんなわたしが自殺報道に直面すると、果てしなく引きずられ落ち込んでしまう。
不安発作を起こし、震える手で頓服を飲み、3日はニュースを遮断して家と会社だけの世界に籠もりきる。
そうでもしないと自分を保てないのだ。
いわゆる“感受性の強すぎる人間”であること。
かつて自殺志願者だったこと。
今も心身の治療を受けていること。
身近に自殺者がいること。
こうした要因が自殺報道の持つ負の力を加速させ、不安発作が引き起こされている面はあるだろう。
正直なところ、自殺願望のなくなった今でさえ、自殺報道を繰り返し繰り返し浴びていると、ふっと呑まれてしまいそうな怖さがある。
目の前に突然穴が現れて、真っ暗で空っぽなそこへ吸い込まれてしまいそうな怖さ。
ウェルテル効果*2という言葉もある通り、自殺報道の持つ負の力は強いものがある。
それだけの負の力をまき散らしてまで、伝えたいことは何なのだろう。
何のために、誰のために、詳細に自殺を報じるのか。
詳細な報道を元に、結果論や憶測や後出しじゃんけんをべらべらと並べて知ったかぶりの顔をして偉そうに語って。
そして消費し尽くしたら忘れていって何事もなかったかのように日常に戻って。
疑惑は疑惑のまま、有耶無耶になって終わったことにされてしまい。
残された人たちの傷口にいたずらに塩を塗り込んで広げて。
ネットのキャッシュだけが、消えることなく永久に電子の海をさまよい続ける。
そこにいったい、何があると言うのだろう。
下衆な好奇心を「知る権利」という言葉で覆い隠し、それに応えるようなセンセーショナルな報道を「言論の自由」と言い張り、留まるところを知らずにエスカレートし続ける世の中を恐ろしいと思うことがたびたびある。
ネットが台頭してきたこと、まとめブログが市民権を得たこと、SNSで手軽に発信できるようになったこと…といった個人のプチメディア化が、よりいっそう拍車をかけているのだろう。対岸の火事とばかりに煽るだけ煽って、あとは知らん顔。
人の人生も、命さえも、下衆な好奇心を満たし鬱憤を晴らすための道具にしてしまう。
その言葉が、その好奇心が、どれだけの人を傷つけ追い詰めているのだろう。
わたしは、今の自殺報道のあり方に、はっきりと「No」を言おう。
今現在精神的に不安定な人が感化されてしまうから、という理由だけではない。
自殺があたかも当然であるかのように、責任の取り方のひとつであるかのように扱う報道は、自殺の芽を知らず知らずのうちに植え付けていく。
その芽を摘むためにも、今の自殺報道に疑問を呈したい。
人を人と思えるような、そんな報道をわたしは望んでいる。
最後に。
自殺のたびにシェアしているガイドラインを。
自殺予防 メディア関係者のための手引き - 内閣府
このガイドラインで言及されている「メディア」は、マスメディアに限らず個人メディアも含めて考えたい。
対岸の火事ではなく、自分のこととして。