さらさら録

日々のさらさらの記録

ままならない身体で生きてやる

今年は例年よりうんと早く梅雨入りしてしまった。くせ毛の髪は自由奔放にうねり広がり、トリートメントもスタイリング剤ももはや何の意味も成さなくなった。今はわけあって(わけはない)髪を伸ばしているので、どうにか結ぶことで髪のうねりをごまかしている。わたしの身体は髪の毛の1本すらままならない。

 

そういえば、3月に入ったころのことである。わたしのメンタルは突然、上向きに振れてしまった。とにかく元気があり余り、夜あまり眠れなくなり、それでもとても元気。何でもできそうな気持ちで満たされ、気持ちが大きくなってついつい買い物をしてしまい、その割にあらゆることが手に着かず、短歌だってつくれない。休日の午前中は基本的に寝ているのに、寝なくてもまったく平気になり、それどころか空も飛べそうなくらい身体が軽くなった。空も飛べそうどころか、オフィスや自宅マンションの窓を突き破ったとしてもそのまま落ちることなく飛べると思っていた。誰彼構わず口喧嘩をふっかけたくなり、そしてその口喧嘩に負ける気もしなかった。

いよいよまずい、そう思いかかりつけのメンタルクリニックに駆け込んだところ、これまで20年ほどわたしにつけられていた病気とは別の病気という診断が下りた。突如躁転し、病名が変更になることはまれによくあるケースらしい。今まで飲んでいた薬も変わり、治療が目指すところもがらっと変わった。

今までの病気では、というよりわたしの人生は基本的に下に振れてばかりだったため、そういうときの対処法もそれなりに身につけてはいた。なにしろ学生時代からの20年選手だったのである。ところが、まさか、そう信じていた病気ではなかったなんて。わたしの人生の半分以上が覆ってしまったのである。20代のころの引きこもり無職のわたしへ、難治性って言われたけどそもそもその病気違うってよ。しかも30代半ばまでそれがわからないってよ。

新しい病気では上にも下にも振れていないフラットな状態をいかに保つのかが鍵になってくるそうなのだが、しかしわたしにはフラットな状態がわからない。なんたって基本的に下に振れて生活してきたのだ。下に振れた状態でどうにか日々を暮らし、それでもたまにセルフモニタリングがぶっ壊れて休むよう言われたりしてきたのだ。服薬のおかげか、最近はすっかり身体に重みが戻ってきた。喧嘩したい気持ちも空を飛べそうな気持ちもなくなり、衝動買いしたものを見て頭を抱えていて、短歌はぼちぼちつくれるようになった。でもこれがフラットな状態なのかというとまだわからない。わからないなりに、フラットな状態をつかめるよう生きていくしかない。

まったく、ままならない身体である。

 

昨年12月には腰椎椎間板ヘルニアになり、以後ずっと痛み止めの服薬が続いている。卵巣嚢種も見つかり、手術するか否かを決めるために大学病院で検査も行ったりした。結果的に卵巣嚢種はしぼみ、ホルモンバランスによるものということで手術は見送りになった。

さいころから致命的なものはないけど、なんとなく身体が丈夫ではない人生を送ってきた。風邪を引きにくくなるらしいということで放り込まれたスイミングスクールも、結局風邪を引いて振り替えレッスンを受ける羽目になるほどである。保育園には2年通ったけど、出席ノートの皆勤シールが貼られた月はなかったくらいだ。

年々、その身体のままならなさはじわりじわりとわたしに迫ってきている。つい先日も、肌の弱さから粉瘤ができ、切開して膿を出してもらったばかりである。

 

それでも、このままならない身体で生きるしかない。

絶望したくなることはたくさんあるし、今の世の中にはだいたい絶望しているけど、まだわたしにはやりたいことも見たいものも聞きたいものも食べたいものもたくさんある。夫とだって、まだまだ一緒に過ごしたい。30代になって、ようやく楽しいものを楽しいと受け取れるようになったのだ。まだとうぶん、このままならない身体で生きてやる。そのためには、この身体を引き受けてやらなきゃね。

 


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果てのような屋上で

2月22日、猫の日。飛び石連休の平日に、通院休暇を取った。通院前に矢場町から栄を歩いた。パルコの最果タヒ展に行き、お昼を食べ、ヨドバシに行き、松坂屋の九州物産展をちらっと見て、そういえばここって屋上あったよね、と屋上庭園に出た。

そこは明るくて、そして誰もいなくて、簡単に果てを感じるのにはぴったりな場所だった。

 

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アンパンマンカーが「ぼく、アンパンマンカー!ぼくに乗ってみませんか?速いですよ!」と話しかけてきたのでとっさに断ってしまった。

テントの中に入ってみた。

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夫は100円で11枚のコインを引き換え、パワプロクンのゲームに興じていた。わたしもやらせてもらったんだけど、ただ来た球を打つだけのシンプルなゲームで、そしてどんくさいわたしでもどうにかなるくらいであった。パワプロクンで稼いだコインをコイン落としに突っ込み、ちょろっとクレーンゲームで遊び(わたしは空間認知がからっきしなので夫がやるのみであった。そして何も取れなかった)わたしたちは意外とこの屋上庭園を満喫した。

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誰もいないと書いたけど、たまに親子連れが来たりもして、今でもこの屋上庭園が元気であるということを感じさせた。何しろクレーンゲームの景品がずらりと鬼滅の刃だらけ、すみっコぐらしもいくつかあり、こんな張り紙まであったのだ。

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さすが、昭和、平成、令和の三時代を生きている屋上庭園である。面構えが違う。

 

年齢一桁の時代以来数十年ぶりに松坂屋の屋上に足を踏み入れたけど、そこは下のフロアや雑踏からまるっきり切り離された時間が流れる、まさに非日常だった。真っ青な空の下でさまざまな時代が混ざり合うこの空間を、果てのようだと思いながら、わたしは思った以上に気に入ってしまった。また、平日午後に来れることがあったら来てみたい。そしてまた、非日常の中で、感情と感傷がぐらぐらとするさまを感じてみたい。

ショコラテリーヌとオランジェット

今年のバレンタインデーはショコラテリーヌを焼いた。恋人時代、1度目のバレンタインデーには高島屋のアムール・ドゥ・ショコラで購入したボンボンショコラを贈り、次のバレンタインデーには市内のショコラトリーで購入したボンボンショコラを贈った。今年も買おうかと思っていたんだけど、繁華街に行くのもなぁと躊躇ってしまい、ならば作ればいいと思い至った。ショコラテリーヌにしたのはわたしが好きだからだ。一緒に住んでいるので渡すも何もない、これは一緒に食べるためのお菓子。


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ちょっと混ぜが足りなかったけどおいしく焼けた。前日に製菓用ブラックチョコレートを買いに行ったらぜんぜんなく、最後の1袋だった苦労も報われた気持ちだ。

ショコラテリーヌを食べ、二人でごろごろしていたときにふと思い出して夫に尋ねた。「そういえば、わたしへのチョコあるの?前用意するって言ってた気がする」と。夫は舌を出して「えへ」と言った。そっかー、まあ忘れることもあるよね。そう言っていたら、夫は「えへ」と言いながら隣の部屋へ行き、収納の奥から紙袋を取り出してきた。取り出してみるとその中にオランジェットの小箱が入っていた。オランジェットはわたしの好きなチョコレートである。夫よ、ありがとう。わたしは猛烈に感激し、そして「一緒に住んでいるので渡すも何もない」と思っていてごめんよ……と思った。結局最後は二人で食べるんだけど。


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バレンタインデーは夫とわたしを引き合わせるきっかけになった日ということもあり、お互いチョコレートを贈り合っている。これから、どれだけのチョコレートをふたりで食べられるだろう。一粒でも多く食べてみたい、そう思う。あ、でも、たまには自分のためにチョコレートを買いたいとも思う。最後にはふたりで分け合うとしても。

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