さらさら録

日々のさらさらの記録

歳を取っても、生きやすくなってないよ。けど。

わたしは昔からたましいが服も着ずに歩いているような人間で、世間一般というものと自分との距離をうまく測れず折り合いをつけられずにいた。そして、枠から弾かれぶつかり打ちのめされぼろぼろになると、大人たちは言ったのだ。
「歳を取れば、生きやすくなるから。それまでの辛抱だから」と。
ところがどっこい、自分が死ぬ予定だった年齢を10ほど超えて立派な大人と見なされる年齢になったけど、やっぱり世間一般と折り合いがつけられない。それどころか、年々“世間”という見えない枠から、自分がどれだけ外れているのかを思い知らされる日々が続いている。相変わらず本音と建前がわからないし、たましいだって素っ裸のまんまだ。せめて下着くらいは着てほしいんだけど。
つまり、全然生きやすくなんてなってない。結局、どうしたって生きづらい。
もしかしたら、「歳を取れば生きやすくなる」と大人に言われて、それを拠り所に生きているティーンエイジャーもいるかもしれない。ごめんね、わたしは生きやすくならなかったよ。もっと歳を取れば違うのかもしれないけど、思ったより苦しいよ。だけど、これは脅したくて書いてるわけじゃない。生きやすくなってないけど、少しだけ呼吸がしやすくなった。

歳を取ったことで、“学校”という枠組みを失い、それよりもっと広い“社会”という枠組みの中で生きることになった。社会はとても広くて、学校の中では知り合うこともできなかった人たちと知り合うことが可能になった。その社会にはインターネットも入ってくる。わたしは、枠組みから外れてしまう自分を肯定してくれたり、面白がってくれたり、見守ってくれる人に出会うことができた。それだけでも大きな救いだった。
「ああ、わたし、息しててもいいんだな」と思えた。
歳を取っても生きづらさそのものは変わってないし、状況はより過酷になってたりする。だけど、生きづらさを抱えながら不器用に生きることが、少しだけ許されるようになった気がしている。これは、人徳がどうこうじゃなくて、誤解や批判を恐れず不器用な生き方を書き残してきた結果なのかな、なんて考えている。
ここのところ、あらゆることが起こりすぎてオーバーフロー状態になってうまく呼吸ができなくなり、もう死ぬしかないけど死ぬ気力もないからとりあえず頓服薬を飲んで意識を失ってどうにか生きながらえる、という凄まじい状態の悪さの中にいた。仕事終わりの友人を捕まえて泣いて現状を整理してもらったり、平日昼間にいきなりキャスを始めてぐだぐだと好きな話題である短歌のことを話したりしていた。そうする中で、わたしはまた呼吸する方法を思い出せた。いい意味で甘やかしてくれる存在、悪いところは悪いと言いつつ基本的に肯定してくれる人の存在がなかったら、呼吸の仕方も忘れて死んでいたかもしれない。彼らにはもう、感謝しかない。
わたしはたぶん、生きづらさを死ぬまで抱えてもがいて生きていくんだろう。だけど、生きづらさを抱えたままでも少し呼吸がしやすくなったことは、生きていく上で大きな勇気だ。
いつか、元気になったら、今度はわたしが生きづらさを抱えた人へ、少し呼吸がしやすくなるために何ができるのかを考えていけるようになりたい。与えてもらったものを還元していけるように。

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