ヴィレッジヴァンガードとサブカルクソ女/野郎
これはわたしの思う「サブカルクソ女/野郎」の悲哀について、もしくはヴィレッジヴァンガードへの歪んだ愛情のお話。
サブカルクソ女のTwitterアイコンにおける自分の爪先率なんなの? なんでみん..一眼レフじゃなくてミラーレス、しかもだいたいオリンパスのPENだな。/サブカルクソ女・サブカルクソ男ってのはヴィレヴァン的テンプレにはまった量産化された人間だと思ってる
2015/01/14 22:06
サブカルクソ女/野郎を考えるとき、わたしはヴィレッジヴァンガード(以下ヴィレヴァン)をどうしても思い出す。
サブカルクソ女/野郎が量産化され始めた時期と、ヴィレヴァンの出店がイオンを中心にテナントという形で拡大された時期がわたしの肌感覚で重なるのだ。ヴィレヴァンをキーワードにしたサブカルクソ女/野郎の量産化についてぼんやりと考えていたことを形にしてみようと思う。
それにしても、サブカルクソ女・サブカルクソ野郎ってとても語感が良い。
ヴィレヴァンがその辺のイオンに出店し始めたのは、2000年代半ば頃だと記憶している。その結果起こったのは、サブカルチャーと言われるもののパッケージングとメジャー化だと思っている。
それまでもヴィレヴァンはサブカル愛好家に好まれていたけど、まだどことなくアングラ感が漂っていた。そのヴィレヴァンがイオンに出店することで、サブカルはヴィレヴァンというひとつの様式にパッケージングされ、あらゆる地方でイオンのテナントのひとつとして消費されることになったのだ。
以前、チンポムの誰かががDOMMUNEで「地方の若者はヴィレヴァンでサブカルを知る」というようなことを言っていたけど、その発言を聞いて、わたしは全国のあらゆるイオンにテナントとして入ったヴィレヴァンを思い出した。そうか、そこでヴィレヴァンを知りサブカルを知るのか、と。
ヴィレヴァン発祥の地名古屋で生まれ育ち、遊べる本屋として存在を当たり前に思っていたわたしにはわからない感覚だっただけに、「ああそうなのか…」と目からコンタクト…ではなく鱗が落ちた。
「ヴィレヴァンはイオンに出店することでサブカルをパッケージングした」と言う根拠は、いくつものイオン内のヴィレヴァンに行った結果だ。だって、イオン(だけでなく他のショッピングモールや駅ビルに出店したヴィレヴァンも含んでいるけど)の中のヴィレヴァンって、「ヴィレヴァンらしい」を詰め込んで並べただけで、どこも代わり映えしないんだもん。
わたしがよく通ったのは、今はなき生活創庫*1の中にあった名古屋中央店と、四日市のスターアイランドといういい感じにひなびたファッションビルの中にあったお店と、名古屋港のオートバックスの中にあるお店だった。名古屋中央店は今は矢場町の独立店舗に移転しているので、今ビックカメラ6FLにあるヴィレヴァンは同じフロアだけど別物なんだよね。四日市のお店は今はもうないけど、15号店だった記憶がある。昔はPAPA店もあったなぁ。どのお店に行っても違うCDが流れていて、プッシュされているものも違っていて、ごっちゃごちゃで通るのにも店内を回り切るのにも苦労させられて、その分掘り出し物を見つけられたし、お店の個性も感じられたしお店にストーリーがあった。だからこそわたしはヴィレヴァンに魅了されたし、そこを足がかりに今まで知らなかったたくさんのカルチャーに触れていくことができた。
それがだ、イオンの中のヴィレヴァンと来たらどうだ。あれだけたくさんあるのに、判で捺したようにJ-POPのボサノヴァカバーやジャズカバーが流れ、同じようなオサレ本がプッシュされ、大型書店と変わらないようなラインナップの漫画が平積みになってて、そのへんの雑貨屋さんと変わらないようなキャラ物やオサレ雑貨やオサレ食器が並んでいて、挙句の果てに美容グッズコーナーまであって、ジンギスカンキャラメルなんて置いてませんよといった出で立ちである。そして、いつ行っても似たような恰好をした中高大学生で溢れている。
もちろん、ヴィレヴァンだって商売だから、テナント料をペイしそれ以上の利益を上げなければいけないことはわかっている。その結果、売れ筋商品ばかりが並んで、お店が画一化してしまっている。その画一化されたイオンの中のヴィレヴァンで初めてサブカルに触れるのなら、その印象がカルガモの刷り込みのように残ってしまい、その結果サブカルクソ女/野郎が量産化されるのもある意味仕方のないことなのかもしれない。
わたしが、冒頭のブコメで「サブカルクソ女・サブカルクソ男ってのはヴィレヴァン的テンプレにはまった量産化された人間だと思ってる」と書いたのはこういうことなのだ。パッケージングされメジャー化されていることに気づかずに“ヴィレヴァン的なもの”をサブカルだ個性的だと思い、そのテンプレートのような姿恰好をした結果没個性的になっているような人たちが、わたしの中でのサブカルクソ女/野郎になっている。*2
画一化されたヴィレヴァン的サブカルが「個性的でありたい」というこじれた厨二病とも言える思いの行き先となり、もはやメインカルチャーとなってしまっているものをサブカルだと思ってしまう。そしてそこから同じような自己表現手段を学び、同じようなポエムを書き綴り、カフェや空の写真や爪先写真をInstagramにアップすることになるのだ。結局、何者にもなれないままに。
それは、ある種の悲哀だ。
はてなキーワードの「サブカル女」には、このように説明がある。
自分の世界やこだわりを持ち、サブカルチャー(主流の文化に対する、少数派に支持されている娯楽・趣味文化)に興味を持つ女子のこと。
対義語にスイーツ(笑)がある。
サブカル女とは - はてなキーワード *3
「サブカル女/野郎」がひとつのジャンルとして成立してしまうくらいに少数派ではなくなっているのに、自分をサブカル人間だと思っているところが「サブカルクソ女/野郎」である所以なのだろう。そしてわたしは、そんなサブカルクソ女/野郎たちに対し、同属嫌悪と悲哀とおかしさとちょっぴりの愛しさを持っている。
何しろわたしは、こういう人間なのだ。
わたしは言うならば多店舗展開し始めたヴィレッジヴァンガードに通う量産型サブカルクソ野郎ではなく生活倉庫にあったヴィレッジヴァンガードに通ってたようなサブカルクソ野郎である
— ねぎ*なぎさらさ (@ccmnt_) 2014, 9月 14
生活創庫を誤字してるけど。